地方からの民主主義

地方自治についてわたしが非常に信頼している人から話を聞くチャンスがあった。
自治体の首長も経験してきた人で、首長当時は国政与党の推薦を受けたが、保守的な政治をするわけではなく、むしろ話を聞くかぎりではかなりラディカルである。
ほんとうはその人の話を体系的に紹介したいのだが、その自由と余裕がないので、メモとして書き留めておく。

  • 日本の政治においては、まず情報の公開が決定的に不足している。政府にとって不利な情報であっても、一定の期間を経たら公開されるというルールを作らなければならない。
  • 従来の活字メディアの衰退(新聞・総合雑誌)によって、相対的に、政府による戦略的情報コントロールの力が上がっている。従来は重要な情報が、見識のある編集者によって編集され提供されていたが、ネットへの過度の依存によって、情報量は多いもののそれらに軽重がつけられず、結果として一般人が非効率なかたちで情報にアクセスせざるをえない。他方で、政府は巧みな情報コントロールを怠っておらず、巷の膨大な情報に比べてはるかになめらかに、受け止められやすいかたちで(政府に都合のいい)情報を発信し浸透させている。
  • 日本では参政権が、歴史的に勝ちとられたものではなく上から与えられたものである。投票行動へのあきらめ(「たかが一票」)を払拭するには、身近な問題の判断に対して自分の一票が意味をもったという経験をすることが大事。そのためにも、地方政治における住民投票はもっと盛んに行われるべき。
  • 住民投票制度の導入は時期尚早」という議論があるが、ではいつになれば「尚早」ではなくなるのか。そのような議論は、けっきょく住民の政治参加への忌避感の表明に過ぎない。政治に参加するハードルを下げる代わりに、参加した結果への責任も感じる(たとえば住民投票の結果が失敗であれば、その結果を引き受けるのは住民自身なのだから)という経験を積むことでしか、住民の政治的成熟はあり得ない。
  • 国政レベルになると、専門性の高い問題の扱いは、代議制を通じて代議士に任せることがふさわしいことが多いが、地方自治、とりわけ市町村レベルでは、もっと住民が直接政治に関与するのが適している。
  • 日本では、政治を評価するときに、スキャンダルが問題になることはあっても、政策的な成功・失敗を基準に評価されることがほとんどない。ふつうの素人の有権者が、もっと頭を使って、政策の良否を見極めなければならない。
  • 住民投票条例は、あまたある「条例」と同列の条例のひとつに過ぎない。国政における、一般法と、それよりも硬性の憲法との関係のような上下関係はないから、住民投票を定めた条例であっても、議会構成次第で、すぐに後退する(極端な話、廃止する手続きも一般の条例と同じ)。住民投票をはじめとする積極的な住民参加を確固たるものにしていくには、最終的には国法レベルで、地方自治における条例より上位のものとして、地方自治の「憲章」(憲法にあたるもの)を定めて、それを硬性のものにするなどの手続きが必要。

…などなど。
小金井市住民投票条例について、わたしは「時期尚早かもしれないが、市民が変わっていくチャンス」と、やや引いてとらえていたが、この方のお話をきいて、もっとがんがん行ってもいいのだ、と背中を押された気がした。