「どんぐりと民主主義 PART4 地方分権と民主主義」

おとなり、小平市で行われたシンポジウム「どんぐりと民主主義 PART4 地方分権と民主主義」を聞いてきた。
http://jumintohyo.wordpress.com/2013/06/19/1-27/
自分は小平市民ではないが、住民投票を民主主義の問題と位置づけたのが面白いと思ったのと、開発と自然環境とのトレードオフという構図は、公園やハケが魅力である小金井でも起こりうる問題であること、あと、府中街道を時々は使うユーザーであると同時に玉川上水周辺の魅力には親しみを持っている、広い意味での地元民なので。

パネリストは、宮台真司いとうせいこう中沢新一國分功一郎の各氏。
以下、簡単に備忘録をつくるが、自分の理解に基づくメモを元にしているので、細部は正確ではない。あと、エピソード的に面白い部分はかなり略した。原文というか、動画はUSTの録画があります。
http://t.co/ecwfwRDEP9

少し遅刻したので、プログラム最初の「小平市での住民投票とその後(水口和恵)」は、ほとんど聞くことができなかった。遅刻して入場したときには、道路予定地となっている雑木林の貴重な動植物が画像とともに順次紹介されていた。

つづけて4人のパネリストが登壇。いとうさんのコーディネートで、話が始まる。
まずは、この動きの現状(住民投票が成立せず、開票もされずに済まされそうな状況)をどう考えるか。
●中沢氏「住民投票は手段であり、目的ではない。50%という成立要件を設けたのは、小平市政の失敗ではないか。運動としては、これからどういう球を投げていくかというところ」
●國分氏「35%強という投票率の数字をどう捉えるかは自分にとっても難しいところだった。吉野川河口堰反対運動の中心となった村上さんに、ちょうど話を聞いたところだが、吉野川との違いは、徳島市民にとって吉野川が水源であり、全市的問題であったことと、小平のような都市化した近郊との違いがあるということ。なお、50%という成立要件は、吉野川河口堰の問題で最初に出てきたもの。村上さんらが住民投票派を議会に当選させたことで議会構成が変わったが、住民投票条例に反対するある会派が50%の成立要件を出してきたので、苦渋の選択でその条件を飲んだ。しかし、最終的に50%の要件を満たすことができた」
●宮台氏「50%の成立要件は、むしろ積極的に捉えたい。アメリカでは大統領選と同時に多数の住民投票が行われており、住民投票が、国家に対する「自治」を貫徹する不可欠の要素となっている。それに対して日本では、住民投票は「異議申し立て」と捉えられており、それでは支持は頭打ちになる。「住民投票」というもののイメージを刷新する必要がある。住民投票とは、「参加と包摂」による共同体自治の回復への政治過程である。「参加」とは、元々抱いていたイデオロギーや価値観の解体であり、「包摂」とは、住民が分断を乗り越えること。分断は統治側の戦略なのだから」

●いとう氏「中沢、國分のお二人は、国交省に要望書を提出したが、どうだったのか」
http://www.huffingtonpost.jp/2013/06/13/story_n_3435733.html
●中沢氏「国交省は東京都の決定に口を出せないという。かつてあったような、自治体に対する「指導」の回路がない。国が地方自治にどうかかわるかがわからなくなっている。国と地方自治体とのあいだのコミュニケーション疎外状況があるのではないか」
●宮台氏「都内の市区町村に対しては、都がカネを握っている状況。政治的自治の達成と、自立的経済圏の形成とは不可分」
●國分氏「国交省の担当者も「地方分権」という言葉を何度も使ったが、それは中沢氏が的確に表現したように「DV」であり、地方自治体という「ドメスティック」な空間で起きていることを、国がスルーしているということ。それは地方分権ではなく首長分権であり、住民が入っていない。民主主義とセットにならなければ地方自治ではない。小平の場合、たとえば交通量調査を住民自身が算出するなど、住民が自分で考えることが必要」

●いとう氏「これからどうしていくか」
●中沢氏「二つある。一つは、開票されずに票が処分されることを食い止める。道路建設に賛成の人々が、投票率を下げるために「投票しない」という動きをしたという「噂」もある(噂にすぎないが)。開票することで、何があったかが見えてくる。もう一つは、この道路が本当に必要かどうかを考えるためのデータを、住民自身が作って、考えていくこと」
●宮台氏「開票結果は、建設推進に都合がいいように利用される可能性も十分にあるのであり、開票しないことにも意味がある。
 巻町の例を挙げると、賛成か反対かにかかわらず、まず住民同士が会って話して意思を表明することに意味があった。ただ、巻町の場合は前提として豊かな地域であり、賛成派も反対派も、“豊かであるのに”中央に依存する選択をするか否かという前提は共有していた。小平においては、そうした何かを共有する「われわれ」をいかに構築していくかという問題がある。
 また、「運動」の成功のためには、行政や議会の中の人と“こっそり呑める”関係が必要。行政や議会における“ゲームのルール”を理解したうえでこちらが行動していることを伝えると、反応はちがってくる」
●國分氏「吉野川河口堰の運動との大きな違いは、あちらではまず、住民へのヒアリングをものすごくやっている。それによって「みんながどう思っているか」ということについてのコンセンサスをつかんでおく必要がある」
●中沢氏「吉野川の方では、地域の人々が互いに顔見知りであり、ヒアリングが可能だった。都市化した小平において、どう呼びかけ、話し合いをしていくかが問題。ソーシャルメディアの力を過大評価はできない。都市部の人間関係は見えていない」
●宮台氏「自分は映画評論をやっているので、テレビ番組制作者とも付き合いが多く、彼らの番組の作り方によって、ソーシャルメディアの中心的ユーザーである若年層がどういう人間関係をもっているか、世代が分断されている状況はよく見えている」
●國分氏「一つには、ネットだけではだめ。ネットでもアピールするし、『週刊文春』にも書くことが必要。もう一つには、オフラインで政治の話をできるようになったのは財産。学童の先生や子どもの親同士でも話せるようになった」
●宮台氏「オフラインで政治の話ができるようにするのは絶対に必要。3.11以後、自分の子供の通う幼稚園で、東電に勤める親の家庭とそうでない家庭とのあいだの分断が生まれかかったが、それを食い止めた経験がある。小平のような運動は、運動が広がることで分断が広がる可能性もあるので、オフラインの力が試される」
●國分氏「吉野川との大きな違いがもう一つ。人口は徳島20万、小平14万だが、署名の受任者が、徳島9000人、小平350人だった。受任者だけで請求が成立するほど。署名も10万筆、つまり人口の半分集まった。これは、署名までに4年くらいの時間をかけて、宮台さん言うところの「完全情報化」(=住民が情報をきちんと知る状況)が進んでいた。小平でも、科学的に情報を提供したい」
●中沢氏「吉野川はカヌーの聖地。スポーツマンが結集したのも大きかった」

●中沢氏「ソーシャルメディアには可能性もある。今回起こった変化は、このまま終息してしまうことはないだろう」
●國分氏「動き始めたことが可能性をつくったと思う」
●宮台氏「熟議とはじっくり討論することではない。議論によって数合わせを争うのではなく、討議によって、予め存在するイデオロギーや価値観を超える何かを生み、認知枠組みを変化させること。土俵のずれていることを意識化すること(新しい土俵をつくること)。
 防災・減災の問題が大きなヒントとなった。行政がつくったものだけでは災害に対応できないことが明らかになった以上、共同体自治を作るしかない。
 共同体自治をつくるための手がかりは、子どもを通じた地域のつながりというリソースをもっと利用すること」
●國分氏「吉野川の村上さんは、運動は論理的でなければいけないと言った。これは「筋を通す」ということではなく、問題解決型であるべき、ということだと理解している」
●中沢氏「自分は“どんぐり”に固着している。人間だけではなく、自然を含む民主主義。それから、スポーツマンだけではなくラッパーが必要」

以下、フロアから紙で提出された質問に対して。

●國分氏「提案型でいくつもりでいるが、「50%」という成立要件を出されたことに対しては、さすがに反対の立場で行った。科学的データを出したい」
●中沢氏「あの雑木林のすばらしさを知る人を増やすことも大事」
●いとう氏「小平で、アコースティックでいいからフェスをやれば」
●國分氏「インターネットはなぜだめか。見る人が限られているから」
●宮台氏「質問は、熟議の公共空間をどう広げるかという問題に集約されると思う。ルカーチグラムシらは、革命の機運が熟しても革命が起こらないのは、革命がもたらす新しい世界が具体的に見えないと、「今」にしがみついてしまうからだと言った。また、トゥレーヌらは、当事者でない人が「楽しいから」参加することが運動を広げると指摘した。これらを踏まえるならば、小平においても、(この「住民参加」の動きが)道路の問題だけでなく、この町に何をもたらすのか、より大きなビジョン(新しい世界)を示すことが必要であり、またコミットすることの「楽しさ」を示すことに意味がある」
●中沢氏「(読み上げ)「吉野川がカヌーなら、小平はサッカーで」(笑)」
●國分氏「まさに未来“図”として、CGや模型で雑木林の未来像をつくってみたい。
 定住外国人が投票できることは本来必要。「市民」という有資格者的なものではなく、そこに住む人=「住民」が投票できるべき」
●宮台氏「定住外国人住民投票参加は、各地で論点になっている。住民投票は包摂、つまり「仲良くなるため」の投票であり、そう考えれば、国籍や世代がさまざまな人が参加して、地域にどんな人が住むかを互いに知る機会になるべき」

以下、私の感想。

  • 50%要件がついたことで「住民投票反対派」が投票自体をボイコットした可能性があるとしたとき、もしこれから開票されたとしたら、出てきた数字をどう読むべきなのか、もう少し見通しが知りたかった。端的にいえば、宮台氏の指摘(「開票しないことにも意味がある」)にどう答えるのか。
  • 「異議申し立てではない住民投票」とは何か。異議がないときに、わざわざ住民投票をしようとはしないような気がするので、やはり「異議」ありきのものではないのか。あるいは、出発点は直感的な「異議」(「この道路計画、何だかおかしくない?」)であっても、それと違う意見を排除せずに動いていく、ということなのか。
  • 吉野川を例に話された「まず住民が何を考えているのかヒアリングを徹底的にすること」に可能性を感じた。小金井市での佐藤前市長時代に、タウンミーティングにおいて、さまざまな考え方の市民がその場で発言することで、市民同士が互いに考えていることに関心をもつ、つまり横のつながりが生まれる萌芽を感じたから。
  • それも含めて、全体としては「参加と包摂」のための住民投票、という宮台氏の考え方に共感することが多かった。その考え方を前提にしたとき、「住民投票は手段であり目的ではない」という中沢氏の発言において、「目的」とされていることが――もし、人間以外の動植物も含めた民主主義、だとしたら――、実は宮台氏とずれていたのではないかという気がする。あるいは、國分氏の「雑木林を守るというところはぶれない」という発言も、「目的」は雑木林を守ること、を示していると思うが、宮台氏の考える「目的」は、住民投票(を含む一連のムーブメント)によって、民主主義が1ステージ進むことであり、結果として雑木林が守られるかどうかは、副次的なことではないのか。
  • いや、そうではなくて、つねに具体的な課題を前にして初めて「参加と包摂」のプロセスが起動するのであり、具体的な課題無くして「参加と包摂」のためのシステムだけが抽象的に存在するということはありえないのか。
  • 住民投票は、熟議を実現するためのプロセスと位置づけてこそ意味があると思う(そこが、単なる「異議申し立て」と一線を画す点ではないか)。そう考えたとき、今回行われた住民投票は、十分な熟議を経たものではなく、応急処置的な、「とりあえず、熟議のための時間をくれ」という住民投票だったと思う。その点で、「住民参加により(3・2・8 号線)計画案を見直す」べきか否か、という選択肢の設定は、工夫されていたと感じる。問題は、もし仮に住民投票が成立して、「見直す必要はない」という住民意思が示されたとしたら、そのとき、次にできるアクションは何かということだと思う。そのときに残されているのは、けっきょく「異議申し立て」の行動になるのではないだろうか。
  • あと、これはシンポジウムの話題から外れるが、たとえば道路が計画され、その計画が周知されて、住民の同意を得て、実際に建設が完了するには、いったいどのようなデータの提示とどのような手続きが必要で、どれだけの時間をかければ納得されるものなのか、目安がよくわからない。
  • もう一つ、これも外れるが、住民投票条例請求の要件を高めるべき(署名の必要数を増やす)という考え方も検討して欲しい。「議会という間接民主主義に任せておけない」とよほど多くの人が考えるときには、住民投票という直接民主主義を援用し、その結果を尊重する、というのがいいように思うのだけど。

とりあえず以上。